東九条マダンのあゆみ

5 第2回~第6回マダン

第1回東九条マダンの成功は、京都の朝鮮人と日本人との「共生」を目指す運動にとって、画期的なことでした。京都市教育委員会の協力もあり、第2回以後は地域の1中学校3小学校の持ちまわりで開くことができるようになりました。第1回が、どちらかと言えば韓国・朝鮮人向けの呼びかけに対し、第2回以後は、より幅広い呼びかけになり第6回まで使われてきました。

第2回東九条マダン

1994年10月30日(日)会場 京都市立陶化小学校。

第1回になかったプログラム。チュルタリギ(綱引き)、セキコギ(縄ない競争)、ポレポレバンド(障害者のバンド)、テコンド演武、車いすパン喰い競争、等々。

セキコギに参加したオモニの感想文
なつかしい、珍しい競技で、このプログラムがあってよかった。子ども(娘)の頃によくやったことだったから、気を張って参加したというおばあさんの話。これくらいの競技なら、喜んで心配しないで参加できるという婦人会の会員さん。いろいろな声を聞きました。セキコギやっているとき、昔の歌がマイクから流れたとき、本当にここがどこかわからない心情。参加した人々のにぎやかな顔を、今でも思い出します。どこのお祭りや運動会に行っても、心から気楽に参加できる種目はないけれど、セキコギ、昔の生活必需品の道具をつくるのだから昔のことを思い出しながら、2世達にも知らせるいいきっかけだと思います。ワラがなかなか手に入らなくて、実行委員会の人は苦労したと思いますけど、来年もぜひやってほしいと思います。

第2回以後、行政も東九条マダンを認知し、「京都まつり」や、「南区ふれあいまつり」等、その他、各種の行事への参加要請が次々にあり、我々も積極的に参加を引き受けました。しかし、京都市と教育委員会が後援団体になったのは第四回からです。1995年1月17日起きた「阪神・淡路大震災」に対し、実行委員会で緊急義援金を呼びかけ、80万円が寄せられました。この義援金を、長田マダン、芦屋マダン、神戸学生青年センターに送り届けました。

第3回東九条マダン

1995年11月3日(休日) 会場 京都市立山王小学校。

このころから、日程も11月3日を中心に落ち着くようになりました。それは行政の「京都祭り」「南区ふれあい祭り」などが、それぞれ10月の最終土・日と、11月第2日曜日になったからです。ただ、それぞれの行事にも参加をし、その間でマダンを開催するということは、とてもハードで、事務局・実行委員会のメンバーに負担となっていきました。

準備の段階で、「1世から学ぶ」という呼びかけで、8回にわたってパジ・チョゴリを縫うことをとりいれました。70歳を越えられたハラボジが、昔を思い出しながら二世三世の若者達に教えられている姿は、とても貴重な体験でした。

当日のプログラムでは、東九条の北隣にある被差別地域、崇仁地区が「崇仁お囃子会」で友情出演をしてくれました。このことは、京都における被差別連帯を展望する画期的なことでした。東九条と崇仁地域は、元々混住する地域で、私の小学校時代(第3回の会場校の山王小学校)は、町内の一部は同じであり、同級生にも崇仁の子ども達が多くいました。有名なオールロマンス事件の舞台も、東九条と崇仁にまたがる出来事でした。その後の行政闘争、改良事業で両地域はわけられ、長く交流はもたれませんでした。崇仁の東九条マダン参加をきっかけに、楽器の練習も、崇仁地区に新たに建設された立派な体育館を利用できるようになりました。これまでは、練習場所を確保することに、とても苦労しました。

次に、フィリピンの民族芸能「ヒューマンカルチャーバラエティー」の参加があり、朝鮮人、日本人だけでなく、新たに来られた東南アジアの人々との交流も模索するようになりました。

また、河川敷にできた朝鮮人集落「40番地」の60~70歳代のハラボジ達でつくられた、「アリランチャンゴ隊」の特別参加もあり、文字通り1世~4世の輪ができあがりました。

その他、新たにつくったサジャ(獅子)による「サジャチュム」(これで、虎と獅子が揃い)や、パネル展示では、「東九条の50年」が注目されました。

いこか つくろか みんなのマダン